
「効率の良い勉強法」とは何だろうか。
学生や社会人に至るまで、勉強熱心な人にはとても興味のあるトピックだと思う。
特に、年齢が上がってくると、脳みその老化も感じるようになり、勉強の効率性というのは、かなり意識するようになってくる。
記憶の大切さ
勉強や学習において、かなりの部分を占めるのは、「記憶」であると思う。つまり、いかに使える情報を得て、それを記憶を定着させるのか、が大事だろう。
「情報なんてネットにいくらでもあるから知識など必要ない、検索すればよい」などと言う人もいるが、それはとんでもない勘違いだ。
「知識」と「知恵」は、新しい物や考えを産み出す欠かすことのできない両輪であり、どちらが欠けても、新しい物は生まれない。
「知識」があるだけでは、単なる物知りだし、「知恵」があるだけで知識がなければ、これまで人類が蓄積してきた知識を活用できず、単なる「要領がいい人間」に止まる。
多くの人間は、記憶の大切さを知っている。
だからこそ、巷には多くの「記憶術」といったものが存在するのである。
エビングハウスの「忘却曲線」
記憶を定量化した概念として、エビングハウスの「忘却曲線」が有名だ。
この「忘却曲線」は、人の記憶は最初の数日で急激に落ち、その後は緩やかに下降する、という傾向を示している。
しかし、この説は完ぺきではない。
というのも、エビングハウスの「忘却曲線」では、意味を持たない、でたらめなスペリングの言葉をいくつ覚えているかを測るものだったからだ。
人間の脳というのは、「必要としない情報」はすぐに忘れてしまうという特性を持っているからである。
つまり、本当に覚えておかなければならない情報を保持するために、邪魔になる不必要な情報は切り捨てるのである。
記憶に自信のなかった私が世界記憶力選手権で8回優勝した最強のテクニック
「忘却」とは、すなわち、邪魔で不必要な情報を振るい落とすことなのだ。脳は、情報のフィルター機能を持っているといえる。
そして、忘れていたことを思い出すこともある。
記憶というのは、忘却へ向けた一本道ではない、ということである。
また、情報の重要性によって、忘却の速度も変わるのである。
記憶の王道は「興味を持つこと」
興味があるものは、やはり忘れにくい。それは、脳が「必要な情報」と認識しているからだろうと思う。
思えば、何にでも興味を持つ子供は、情報の吸収力がすごいし、物知りな人というのは、大抵色んな物事に興味を持っている。
「興味を持つこと」、これが勉強や学習の王道である。
忘れっぽい、と嘆く人は、自分自身が本当に興味を持って物事に接しているか、自問してみると良い。
案外と「面倒くさい」と思っていたり、「義務感」からしか学習していないのではないか。
ただ、私個人の経験からすれば、どれだけ興味を持って接していても、やはり忘れるものは忘れる。こればかりは、もしかしたら自分自身の持って生まれた脳の力も関係しているかもしれないので、仕方がない。
そういった時には、やはり忘却曲線に沿ったスケジュールで勉強するのが良いと思う。
興味を持ちながら忘却の特性を利用する
まとめると、「興味を持つ」というのは、学習において大前提である。
その上で、抗しがたい「忘却」については、「忘却曲線」に従って、記憶の定着を促す必要がある。
つまり、王道としては、「興味を持って接すること」。
その上で、忘却曲線に沿ったスケジュールで勉強すれば、かなり記憶の定着に効率がよくなりそうだ。
「恐怖」でも記憶は定着するか?
私個人の経験になるが、小学生か中学生くらいの頃、保健体育の授業で、「ある文章を覚えて来る」という宿題が出された。
私はその宿題のことをすっかり忘れていて、思い出したのは、その保健体育の授業が始まる前の5分間(10分間だったかな?)休憩のときだった。
当時の保健体育の授業は、体育の先生が兼ねていて、この先生はかなり怖い先生で有名だった。
で、宿題で出された文章を覚えていない、なんて言おうものなら、何をされるか分かったものじゃない。子供心に、結構な恐怖心が芽生えた。
なので、私はその5分間休憩でその文章を何度も繰り返し読んで、必死に覚えた。
そして、保健体育の授業が始まった。
授業では、確か、当てられた人が、起立して、覚えて来た文章を発表する、というものだったと思う。
私は、自分が当てられないように、と願っていたが、その願いもむなしく、私の名前が先生の口から出てきた。
観念した私は、起立して、たったさっき覚えた文章を諳んじてみた。すると、なんと完璧に覚えていて、言いよどみすらもなかったのだ。
あの時の、先生の感心したような表情が忘れられない。
強面の先生は、「おお…」といった表情で私を見ていた。あたかも、「昨日必死で覚えて来たんだな」とでも考えているかのような表情だ。
いや、さっき必死に覚えたばかりなのだが…。
で、その課題の文章なのだが、なんと30年以上経った今でも、完璧に覚えている。保健体育の教科書の冒頭に載っていた文章だ。
「健康とは、身体的、精神的、社会的に、完全に良好な状態にあることであって、単に虚弱でないとか病気でない、ということではない。」
誰が言ったものなのか知らなかったけれど、今、ネットで検索してみたら、どうやらWHO憲章における健康の定義のようだ。原文は、以下の通りである。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
この経験の場合、私の記憶の動機となったのは、多分「恐怖」とか「義務感」である。先生に怒られたくなかったからこそ、必死に覚えたのである。
だが、恐怖心だけが記憶の定着に寄与したわけではないと思う。
記憶には「短期記憶」と「長期記憶」があり、クラスの前で暗唱できたのは、とりわけ「短期記憶」によるものが大きい。
しかし、今でも暗唱できることからも分かるように、この文章は「長期記憶」として、私の脳に定着している。
実際に先生から指名されて、他のクラスメートの前で「発表」したことが、記憶の定着につながったのではないか、と思う。
また、先生に、はっきりと褒められたわけではないけれど、「感心したような表情」をされたことも大きいのかもしれない。
つまり、達成感と褒められるという報酬が得られた、というのも影響しているだろう。
そして、こういった全ての情景や一連の出来事、つまり恐怖心から必死になって覚えて、発表して、成功したといった出来事が、「エピソード記憶」として、私の記憶を強固にしているのだろうと思う。