大化の改新とは、聖徳太子(厩戸皇子)死後、実権を握った蘇我氏の滅亡と、元号「大化」の制定後に行った一連の改革のことを指す。
古代日本の国家における一大イベントでもある。
蘇我氏の独裁政治
聖徳太子の死後、蘇我氏が政治の実権を握るようになった。
蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(えみし)や、蝦夷の子である入鹿(いるか)は、聖徳太子の一族を滅ぼし、独裁的な政治を行うようになる。
絶大な影響力をもつリーダーが亡くなると、こういったことが起こることが多い。
当時、朝鮮半島の情勢がかなり緊迫しており、日本は海外からの脅威に備えなければならない時期であった。
そんな時に、日本国内は分裂して、混乱していたわけである。
そこで、立ち上がったのが、聖徳太子の遺志を継いだ中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)だ。
中大兄皇子は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と共に蘇我氏を滅ぼすことに成功する。
これが645年のことで、この年号を「大化の改新」の年とすることが多い。
そして、645年が、日本独自の年号「大化」が制定された年でもある。
大化の改新では、公地公民の原則が打ち出され、それまで皇族などが支配していた土地などを国家が直接統治するようになった。
白村江の戦い
さて、上述のように、朝鮮半島は激動の時を迎えていた。
新羅(しらぎ)は、大国の唐の援助をバックに、高句麗(こうくり)や百済(くだら)との戦に勝利する。
当時、日本は百済と親交を結んでおり、百済からの救援の要請があった。
日本としても、百済を失うことは国益に反する。朝鮮半島における影響力が低下し、日本の国防にも影響するのだ。
そこで、日本は朝鮮半島に軍を派遣することになる。
しかし、663年に起こった「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、日本軍は新羅・唐連合軍に敗れ、撤退してしまう。
日本が敗退したことで、百済は滅ぼされ、朝鮮半島は新羅によって統一されることとなったのである。
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