清少納言は、966年頃から1025年頃に日本で活躍していた随筆家・歌人だ。
『枕草子』の作者として有名。
今回は、清少納言について学ぼう。
清少納言の本名
清少納言の本名は「清原諾子(きよはらのなぎこ)」だと伝えられている。
父親は清原元輔(きよはらのもとすけ)で、歌人として著名だったようだ。
ちなみに、「清少納言」の「少納言」は役職名が由来である。つまり、「せいしょう・なごん」ではなく、「せい・しょうなごん」と区切って読むのがより正しようだ。
清少納言の作品
清少納言の作品としてもっとも有名なのが随筆『枕草子(まくらのそうし)』だろう。
また、清少納言が創作したとされる歌は、『清少納言集』という家集や、後述するように百人一首に収録されている。
百人一首に選ばれた清少納言の歌
百人一首に選出された清少納言の歌は以下の通り。
「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ(夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも よに逢坂の 関は許さじ)」
読みは、「よをこめて とりのそらねは はかるとも よにあふさかの せきはゆるさじ」である。
紫式部との関係
清少納言と同時代の人間に紫式部がいる。紫式部は、現代にも世界中にファンがいる『源氏物語』の作者だ。
清少納言と紫式部は、同時代に生き、しかも女性同士であり、同じ作家・歌人であることから、ライバル関係にあるということが盛んに喧伝されてきた。
その根拠の一つとして、紫式部が清少納言について書いた文章がある。
紫式部は、『紫日記(紫式部日記)』で清少納言のことを「威張ってるし、漢字をいっぱい使ってるけれど、中身は大したことない」みたいなことを言っている。このあたりが、どうやら2人がライバル関係ではないか、と揶揄される原因だったのかもしれない。
しかしながら、当時、清少納言は中宮定子(ちゅうぐうていし)、紫式部は中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)という、一条天皇の2人の皇后(「中宮」は「皇后」の意味)に仕えていたものの、2人が宮仕えしていた時期はずれているため、直接の面識はないとみられている。
また、清少納言が活躍していた時代には、紫式部の名前は知られておらず、清少納言が殊更に紫式部を貶める理由はなかったとみられているようだ。
つまり、清少納言と紫式部は、お互いにライバル視していた、というよりも、紫式部が一方的に清少納言を毛嫌いしていた可能性が高いようだ。