私が本を読んでいて、「いい本なのにもったいないな」と思うときがある。
それは、「索引がついていない本」に出合った時だ。
「そういえば、このことについてあの本に書いてた気がするな」と思って、昔に読んだ本を参照するんだけれど、索引がついていないことがある。仕方がないから、目次から内容を類推して、目当ての箇所を探すんだけれど、面倒くさいし、時間がかかる。
もちろん、小説などに索引は必要ないけれど、情報を売りにするような本には必要ではないかと思う。
索引がついていない本は、特に日本の本に多いような気がする。
最近では、日本でも索引がついている本が多くなったけれど、それでも英語の書籍に比べるとまだ割合が低いと感じる。もちろんこれは私の主観(全ての本を調査するなんて無理)なんだけれど、あながち間違っていないと思う。
例えば、アメリカなどでは、ポピュラーサイエンスの類の本でもちゃんと索引がついていることがほとんどなのに、日本では結構真面目なお堅い本でも索引がついていなかったりする。
日本で索引がある書籍が少ないのはなぜなのか
野口悠紀雄は『知の進化論』という本の中で、日本の本に索引が少ない理由として、日本では情報を検索する(この本では「プル」と呼んでいる)需要が少ないからである、と指摘している。
確かに、野口氏の指摘にも頷ける部分がある。
私としては、まあ単に面倒くさかったからじゃないのかな、とも思う。著作を仕上げた後に、さらに索引をつけるなんて(まあ、出版社のスタッフに頼めばいいことだけれど)。
それに、本を書くような大先生には、「なんで読者のためにそんなことをする必要がある」という傲慢な考えを持つ人もいたかもしれないし、「情報を抜き出すようなことをせずに、最初から読んでほしい」という願いを持つ人もいるだろう。
出版社としては、索引をつけるためのコストや労力をケチっていたかもしれない。
結局のところ、上に述べた理由が複合的に絡み合って、索引をつけるという文化が育たなかったのかもしれないね。
上に述べたように、最近では索引がちゃんとついている本が日本でも多くなってきた。そのことに関しては、素直に喜ばしいことだと思う。(なお、上に取り上げた『知の進化論』にもちゃんと索引がついている。)新書のようにそれほどの大著でなくても、索引がついている本が増えてきているのは、良い傾向だと思う。
願わくば、「索引は重要」との認識が今以上に広がりますように。