「ハンムラビ法典」で有名な「ハンムラビ王」は、バビロニア帝国の初代の王だ。
紀元前1810年頃に生まれたとされているが、正確な年月については分かっていない。
ハンムラビ王は周辺諸国を征服した王であったが、彼の名は、その業績よりも、彼が著した「ハンムラビ法典」でよく知られる。
ハンムラビ王
ハンムラビは、都市国家バビロニア(バビロン第1王朝)の王シン・ムバリトの息子として生まれる。つまり、王子として生まれたわけだ。
そして、紀元前1792年に王位に就いたという。
ハンムラビが王位に就いたころは、バビロニアはまだ強国に囲まれた小国であった。しかし、紀元前1764年にラルサを併合した後、前1759年にマリを征服するなど、ハンムラビ王は支配圏を広げていった。
そして、前1757年にシュメール、アッカド地域全体を勢力圏内に収めたという。
そして、前1728年~前1686年の間に、ハンムラビ王は死去したようだ。
ハンムラビを英語で
ハンムラビは英語で Hammurabi と書く。
ハンムラビ法典とは
ハンムラビ法典は、現存する2番目に古い法典と知られる。ちなみに、1番目に古いのはウル・ナンム法典で、ハンムラビ法典はこのウル・ナンム法典の影響を受けているという。
ハンムラビ法典といえば、最も有名な語句は「目には目を、歯には歯を」だろう。
これは、近代法における同害報復という概念で成り立っている。「倍返しだ」ではなく、「等倍返しだ」の精神である。この「同害報復」は、ラテン語で「タリオ(talio)」という。
また、ハンムラビ法典は「罰刑法定主義」の原点ともいえる。
「罰刑法定主義」とは、まあ刑法の原則のようなもので、犯罪行為を処罰するためには、その行為が犯罪行為であることをちゃんと予め明確に規定しないとダメですよ、ということだ。
法律を決めて、その法律のとおりに罰を執行する、という概念は、当時としては画期的であったと思われる。
ハンムラビ法典は過酷?
ハンムラビ法典は、初めて法律が制定されたという意味では画期的であったが、その内容には、現代の私たちからすれば過酷ともいえるものも一部含まれていた。
例えば、法律を違反すれば死刑だったし、正当な理由なく夫の元を去った妻も死刑だったという。さらに、逃亡した奴隷をかくまった者も死刑となった。
さらに、かなり理不尽ともいえる内容もあった。
例えば、バビロニア人同士が争った場合、被告は川に飛び込み、無事に生還したなら無罪、溺死すれば有罪とされた。さらに、被告が無事に生還したとすれば、原告は死刑に処された。虚偽の告発をした、という理由だ。
これなら、泳ぎが得意な人間は、かなり有利だといえる。現代にこの法律があるとすれば、学校の水泳の授業もかなり本気度が高くなったであろう。
もちろん、ハンムラビ法典は、一部に上述のような不合理な内容もあるものの、その精神においてはかなり高度である。
特に、将来の王に対して、法の支配を順守することを指示し、己の都合で法を変えることを禁じているという部分については、現代の法治国家に通じるものだ。
ハンムラビ法典は現存する?どこに保存?
ハンムラビ法典は、石柱に刻まれた状態で1901年に発掘された。楔形文字で石柱に刻まれている。
そして、そのハンムラビ法典の石柱は、現在はパリのルーヴル美術館に所蔵されている。
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