中国の統治下で民主主義が脅かされている香港。
現在、香港では「一国二制度」が認められている。これは、その名が示すように、「1つの国に2つの制度がある」というものだ。
つまり、中国と香港は、1つの国(つまり中国)であるけれど、中国の共産主義と共に、香港の資本主義も認めましょう、というもの。
香港にある程度の自治権が与えられているということだ。
では、なぜ香港にそのような例外的措置が取られているのか。そこには、過去、香港がイギリスの植民地であったということが関係している。
歴史的出来事「香港返還」
1997年7月1日、香港が中国に返還されるという歴史的な出来事があった。
ちなみに、香港が「返還」された、というのは、日本での呼び方だ。中国はこれを「回収」と呼び、香港では「回帰」と称するらしい。
この記事執筆時(2019年9月)から数えて、もう20年以上も前の話なので、今の若い人には馴染みのないイベントであろう。
実は、現在の香港は、イギリスの植民地であったことがあるのだ。
香港がイギリスの植民地となる原因が、かの有名な「アヘン戦争」である。
アヘン戦争とは
18世紀中頃から、イギリスによる中国貿易が盛んになってきた。
そのころ、イギリスでは喫茶が盛んになってきており、イギリスは中国から茶を買い入れようとしていたのだ。
茶を仕入れるため、18世紀末頃から、イギリスはインド産のアヘンを大量に中国に輸出するようになった。
アヘン(阿片)は、麻薬の一種で、これらをイギリスは大量に中国にバラまいたわけである。
もちろん、中国も黙ってはいない。禁輸令などを出してこれを食い止めようとしたが、なかなか収まらない。麻薬の魔力である。
こういった麻薬の輸出が拡大するに伴い、中国の銀も大量に国外に流出することになる。中国の経済は混乱した。
そこで、中国(当時は清朝)は、1839年に林則徐(りんそくじょ)を広州に派遣し、アヘンの取り締まりに動き出した。
アヘンを見つけ次第、没収して廃棄してまわったのである。
1834年6月には、イギリスの水兵が酔って村人を殴り殺す事件も起きていたという。
この事件では、清はイギリスに対して、犯人の引き渡しを求めたが、イギリスはこれを拒否した。
こういった出来事もきっかけとなり、清はイギリスとの通常の貿易さえも禁じ、イギリス人の退去を求めるに至った。
こういった外交上の問題を解決するため、イギリスは武力行使に出た。
これが「アヘン戦争」である。1840年のことだ。
戦争は、軍事力で清を圧倒したイギリスの勝利で、1842年に終了した。
1842年に南京条約が締結され、戦争に負けた清は、上海など5港を開港するなどの条件を飲まなければならず、そういった条件の中に「香港島の割譲」が含まれていたのである。
当時、香港島は、「不毛の島」とされ、「海賊の島」とも呼ばれることもあったそうだ。当時のイギリス外相でさえ、もっと良い場所を求めるべきだ、と言っていたらしい。
兎にも角にも、イギリスは、戦争で得た「香港島」を拠点に、中国との貿易を展開していくことになるのである。
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